考えるための方法論
「哲学」という言葉は様々な意味がありますが、西洋哲学史において「哲学」の概念自体に大きな質的変化があったことは我が国ではあまり知られていません。
というのも、ある時期を境として、哲学は「真実を追求する学問」から「正しく分析するための方法論」へと変化しています。結果、行き着いた結論は「世に絶対的な真実はなく、すべては曖昧で疑わしい」「すべての命題は正しいとも言えるし、正しくないとも言える」などのふわふわとした命題。
ロジックを駆使してすべてのものを疑い尽くした果てに哲学者達がたどり着いた世界は、自分たちが使っている「ロジック」というもの自体が極めて曖昧で不規則なものであるという景色でした。

「答え」をください。
一方、このお話は日常世界で生きる私たちの実感値とはかけ離れていて、私たちはとかく「唯一絶対の正解がある」と考えがちです。特に情報化が進んだこのこのご時世、人はすぐに役に立つことを求め「これが正解」「こうすればうまくいく」という「正解」が与えられるのを待ち、簡単な答えや方法論を提示してくれる人について行きます。
しかしながら、それらの「正解」はある文脈、ある状況においての「正解」であり、その「正解」が他の状況にも適用するかどうかについては一切保証されません。でも、人は誰かに教えられてようやく理解した、一つの正解や一つの考え方にしがみつき、そこからすべての世界を理解しようとしてしまいます。
私が生業としてきた「コーチング」の世界においても、それにまつわる視点のみを通じて周囲の世界を理解しようとする姿勢により、人生の可能性や収入を閉じてしまう人は多くいらっしゃいますし、会社組織においても、考える基盤を過去の経験にのみ頼ってしまう中高年の方は多くいらっしゃり、結果的に会社の重荷になっている事例を散見します。
このような思考様式を持つ人は「見えている人」からすると容易に支配しやすく、「「コーチ」よりも「コーチ」にビジネスを教える人の方が多のではないか」という冗談みたいな市場環境が形成されたり、「不良債権」となった人は、そう遠くない将来、何らかの形で切り離され、次第に社会での居場所もなくなっていきます。
少し厳しいお話ですが、現代社会における「弱者」と「強者」の違いもこの「正解」や「真実」に対する姿勢の違いに起因します。
このことは「個人の成功」という点でももちろん重要な視点ですが、私自身は、むしろこのような傾向が続くと社会自体が活力を失っていき、誰も幸せにならないものと考えております。そして、現代日本社会にもはやそんな余裕はないと大きな危機感を抱いています。
一刻も早い「底上げ」が必要です。

「おはよう」の意味、「リンゴ」の意味
関連して一つ現代哲学の命題ご紹介します。
「言葉の意味はその使用である」
その意味について、例えば「おはよう」という言葉は、一般的に朝の挨拶に使われる言葉ですが、夜の飲食の世界では夕方の出勤の挨拶にも使われるという事例があります。
このような「おはよう」の使われ方をよく分析していくと「おはよう」の意味はあらかじめ固定されたものではなく、その使われる状況や文脈によっていかようにも変化しうる性質を持ったものである(=夜の挨拶としても意味を持つ)と言うことがわってきます。

別の例としては、ある人が机の上のリンゴを指さして「リンゴ」と言ったとき、語りかけられた人がそのリンゴを持ってきてくれた場面を想定してください。この場合、この二人の間には「リンゴ」という音声に「その机の上にあるリンゴを持ってきて」という意味が発生したということになります。
「言葉の意味はその使用である」という命題は、言葉にはあらかじめ固定された意味というものはなく、言葉の意味とはその場のその文脈の中で、言葉を交わす人同士がその瞬間に合意することで、その場一回限りの意味として初めて世に現れてくるものである、ということを説明しています。
その上で、私たちは「意味」自体にとらわれるのではなく、それがどのように使われているのかをしっかり見る必要がある、ということを命題の提唱者のウィトゲンシュタインは主張しています。
曖昧な言葉、曖昧な論理
このように突き詰めていくと、そもそも私たちが情報の伝達や思考の礎としている「言葉」自体が非常に曖昧で不安定な性質をもっているものであることが次第に理解できるようになってきます。
そして、現代における哲学の性質は、このような構造の中で私たちは正しく思考できているのか、その論理は正しく表現できているのか、ということなどを批判的に分析していくための方法論という意味合いが強くなってきています。
私たちが、このような性質を持った現代哲学を学ぶ意義とは、一言で言うと「正しく物事を分析し、考えつづけるための方法論」を身につけることでありましょう。
言い換えると、その研究成果を日常に生かしながら、自身の論理を正しく懐疑していくことで様々な影響で汚染された自らの思考をクリーニングし、絶対的な正解がない、相対化された世界の中で思考し続ける心の強さを保ちながら、なるべく曇りのない目で世界を分析し、新たな思考様式により、大きな目的意識を持って解決策を作り上げていく、そして、その作業を何度も繰り返していく、という力を養うということに他なりません。
そして、これ作業を支える要素が「知性」というものではないでしょうか。

西洋エリートの帝王学と我が国の現状
現代日本の学校教育は誰かが用意した「正解」に至るために思考するものであり、思考停止を助長するという意味でもはや「死に体」といっても過言ではない状況です。一方で、こうしたことを深く理解している西洋のエリート教育においては早い段階から哲学的素養の教育が成され、これが世界を席巻する理由の一つとなっています。
固定観念無く、希望的観測も一切無く、物事を冷徹に見通し、分析する。そして根本のところから手を打ち、物事が自ずと意図する形になるようコントロールしていく。その、他を圧倒する狡猾で支配的な打ち手は現代哲学の素養があってのことです。
とはいえ、私達日本人が彼らに能力面で劣っているとは到底思えません。私達が力を発揮できていない背景はいろいろありますが、一つにはこのような真に深く物事を考える「方法論」が教えられていないということが問題だと考えており、根本的には教育の問題です。
もちろん、私たち日本人が必ずしも彼らと同じ行動様式を取る必要はありませんが、支配者達が世界を動かしている論理を深く学ぶことで、個人としては大きな進歩が見込まれますし、社会全体としては私たちのアイデンティティといいますか、本当に大事なことを再発見する契機となり得るものと考えています。

息の長い作業になっていくと思いますが、まずは、電子書籍を無料でお配りしておりますので、こちらからご覧になっていただければ幸いです。