「東洋哲学/東洋思想」について

「世界を形作っている言葉の不備」についての問題を別の側面から見てみると、東洋では言葉に囚われず、そこから逃れていこうとする思想が形作られています。なんとなく直感的にみんな感じているものでした。

いわゆる、Bruce Leeも言っている「考えるな、感じろ」の世界観。

世界は言葉でできていて、私たちの存在に意味などないのであれば、言葉の外側のもっと純粋な真実に帰依したいと思うのは人間としての自然な感情です。人は何らかの確固たる真実(固定点)の上に立っていたいと願う生き物ですから。

ただし、現代哲学の観点から見るとこの分野についても問題は多く、「マインドフルネス」など、実際に企業の人材育成の文脈でも引用されることの多い分野ですので、少し批評を加えておきたいと思います。

東洋思想/東洋哲学のテーマ

それぞれのロジックはそれぞれ異なるものの、ヨガや禅をはじめとする東洋哲学/東洋思想においては、大脳が言葉で作り出した世界(=幻想)からいかに逃れ、本来の自分に戻り思考していくか、自らの「大きさ」を理解していくか、自らの秘めたる力を目覚めさせていくか、さらには宇宙と一体になって真実に目覚めていくか、みたいな方向性をテーマとしていると捉えています。

また、近年、米国のIT企業を発信地として、宗教色を落とした「マインドフルネス」が注目されていますが、こちらも自分の脳が言葉を通じて作り出した世界(しばしば暴走している)から逃れ、一旦ニュートラルに戻し、クリアな心身で再び仕事に臨んでいくということが目的です。

「感じる」ことの純粋さについて

さて、この「感じる」という概念、とても大事なことだとは思いますが、言葉から逃れようとした瞬間に私たちは大きな構造的矛盾をはらむことになります。

それは「感じる」という概念自体が言葉で出来ているということ。「感じた」と認識出来た時点ですでに言語世界に取り込まれているということ。

言葉の外にある「感じる」という概念をどのように認識するのか、またその妥当性を評価するために、他者にどのように伝達するのか、師は「感じる」という体験をどのように弟子に伝授するのか。

私たちは「感じた」ことを認識しようとする段階ですでに言葉の力を借りなければなりません。この時点で、その人が「感じた」ことはその人は過去に理解してきた言葉に囚われ、純粋なものではなくなってしまいます。

こうして考えてみると、結局「感じる」はどこまで行っても個人的な体験であり、自分以外の人が何をどこまで、どのように「感じた」かは、その人自身も純粋に語ることはできませんし、他の人も一切それを知り得えないことがわかります。

ここから東洋思想/東洋哲学のスタンスをうかがい知ることができます。

東洋と西洋のスタンスの違い

西洋の哲学者は「疑う」ことを通じて真理に到達しようとしてきました。

後世の哲学者達は偉大な先人の哲学を盲目的に崇めることなく、疑い尽くし、それを否定し、乗り越えていくという動作を繰り返していきます。その結果として西洋哲学は巨大な体系として発達し、また、その当時の国家に、文化に、下流にある学問に大きな影響を与えていきました。

このモデルはいわば「ボトムアップ」の積み上げ型。地上からまだ見ぬ「究極の真理」に向けて先人の論を超えて高みへと一歩ずつ登っていくイメージです。

一方、東洋哲学は何かを「感じた」人がまず最初に居ます。

仏教ですとお釈迦様が「悟った」というのがスタート地点です。そしてスタートに居る「悟った人」だけが本質を理解し、それを伝えられた人は、その教えを解釈し、ロジックを構成していくことになります。いわば「トップダウン」型。最初に居る人の教えを否定し、乗り越えていくというスタンスは基本的にはありません。

どうすれば悟れるのですか?

この分野、私自身も決して嫌いなわけではなく、研究もしています。以前、参禅するためにとある道場お伺いしたことがありまして、こんな体験をしました。

座禅瞑想終了後のお茶の時間、参加者の一人がしきりに導師にこんなことを質問していました。

「どのようにすれば悟ることができるのですか。」

ご本人、必死の思いで質問されていることは伝わってきましたが、それこそまさに語り得ないものであり、言葉では伝えられないもの。東洋思想は「体験」を通じてしか真理には近づき得ないものです。

また、だからこそ、その人がどの程度悟っているかもわかり得ないものであり、批判を行う際の共通の基盤がありません。ここが一番の問題でありまして「なんとなくわかった気になる」ということもありますし、突っ込んで言うと「カルト化」するリスクも構造として内在しているということにもなります。

(※)ですので、伝統的な宗教では戒律がしっかりと定められています。

「オープンソース」のリングで生きる

以上のように西洋思想は公のリングで論理を戦わせながらレベルアップを図っていく、いわば「オープンソース」の世界。良いものを作った者が「チャンピオン」です。

反面、東洋思想は内的感覚にフォーカスしたクローズドな世界。取り扱うのは内的感覚であるため、自らの「感じた」境地は個人のものであり、基本的に他者と交わることはありません。

ゆえに、東洋思想は現実世界で満たされないことにより生じる「ルサンチマン」の出口、または、自らを救済してもらうための救世主、本質的な部分で世界とのつながりを断ち逃避のための母の子宮、のような役割を果たし得てしまいます。

もちろん、社会に色濃い「光」と「影」がある以上、そのような「救済」も本当に大事なことですし、このことに良い、悪いはありません。

ここでお伝えしたいことは、私たちは、このような性質をよく理解した上で東洋、西洋の思想に付き合う必要があるということ。

そして、ここまで読み進めてくださった皆様への提言としては、

  • 東洋思想は内的な感覚を高めるためだけに使い、その至った境地、気づきは決して言葉にはしない(他者に理解してもらおうと思わない)こと
  • 現実世界で生き抜く上においては、知の格闘場であり正しいものが生き残る「論理」というオープンソースのジャングルで磨き上げられてきた西洋哲学に拠って思考を磨き、世界と関わっていくていくこと

というスタンスが何よりも大事であろうと考えて居る次第です。

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