「権威主義」からの脱却

ここまで、様々な面からコーチングに関する論説を展開し、その特性や限界、リスクなどを明らかにしてきました。

もしかしたら気分を悪くされた方もいらっしゃるかも知れませんが、私が批評をしているのは決して「コーチング」の価値を貶めるためではありません。むしろ目的はその価値を上げていくため。そして「権威主義」から逃れるためです。

あの人がこういった。この人はああいった。。。。

  • 名前のある人やベテランが言っていることは本当に間違っていないのか。
  • 物事の一つの側面からしか見えていないのではないか、
  • 権力と権威によって独善に陥っていないか、

などなど。批評・批判が機能しないと物事は「権威主義」に陥ります。

その具体例として、現在、世の中の共通の基盤となっている科学。これらもその黎明期には権威主義が幅をきかせていました。

ガリレオやコペルニクスが提唱した「天動説」やダーウィンの「進化論」などはその顕著な例ではないかと思います。そのほかにも長らく「トンデモ科学」が幅をきかせてきた時代があります。

西洋哲学はこのような「権威主義」を善しとしてきませんでした。このため科学哲学など権威主義から脱出するために様々な批評がなされ、より客観的に真実を明らかにするために「方法論」が確立されていきました。

「科学」の限界

しかし、そのプロセスで科学は思わぬ事態に直面することになります。それは「学問の限界」の発見です。

「科学的に証明された…」といった言葉遣いが反映するように、私たちは「科学」とは客観的な真実を確定させるもののように信じています。

しかしながら、抽象度を上げて突き詰めると「科学はなにも確定していない」ということがわかります。

詳しく語ると長くなるのでここでは省きますが、科学哲学者の議論では科学は「未だ反証されていない仮説」でしかなく、さらには、私たちはまともに「反証」することさえ出来ないという議論が主流となっています。

このような「学問の限界」は数学や哲学においても発見されています。ゲーテルの不完全性定理などは有名ですよね。そして、それはすべからく「学問」というものが言葉によって形づくられているということが原因であり、言葉の限界を示しているということでもあります。

「不完全性」を知る意味

研究者を志す初学者に対しては、このような科学や数学の不完全性についての話は、しっかりと教育されているようです。

自らが志す学問の不完全性を最初に知ってしまうというのは若き初学者達にとっては酷な話ですが、一方で「科学」や「数学」を絶対化せず、謙虚な姿勢で研究に励めよ、という先達からのメッセージであり、私はそれは非常に意義深いことだと思います。

「絶対化」「自己同一化」は人を蒙昧にし、知性を劣化させ、寛容さを失わせ、疑うことを許さない「宗教戦争」を引き起こします。

私たちは科学者や数学者、哲学者を志す者ではないですが、これら分野の初学者に対するメッセージと同様、私たち全てが、自らの仕事や学習してきた概念などの経験に同一化しないこと、絶対化した視点で見てしまわないことこそが、健全な社会を育むために何よりも大切なことだと考えています。

そうした観点から、最終話でここまでのお話をまとめていきます。

10年目のコーチング批評(その7:最終話)へ