「近代の後」の時代。

昨日も同旨のことが語られていたように思いますが、フランスの哲学者/思想家のリオタールが「大きな物語の時代」と表現した「近代」がすでに行き詰まっていることはなんとなくみんなわかっていて、時代は「ポストモダン」(近代の後の時代)に入っています。

ここで、「ポストモダン」の定義については人それぞれ、ひとことでは表せないのですが、共通して言えるのは「合理的」で「整合的」で「網羅的」で「ヒエラルキー的」なものへの疑いが高まってきている時代、ということかと思います。

リオタールによって哲学的用語として「ポストモダン」という言葉が語られ、広まったのが約40年前ですから、(その1)でシェアしたここ2〜30年の人の意識状態の変化と、時代的には符合してきますね。

もしかしたら「ポストモダン」の時代に適応する知性として「第2層」の意識状態が増えてきているのかもしれませんね。

※「ポストモダン」という言葉は、ここでの文脈とは別にいろいろなものが張り付く概念であるため、以下「近代の後」と表現します。

だからこそ、

これまでの近代的な価値観に染まった「思考」ではなく、「心の声」に従い、現れ出てくるものに好奇心を持ちながら、感じたままに力強く選択し行動していく、そしてその意味は後で明らかになってくるであろうということ。

これは本当にその通りだと思いますし、必要なことではあるのですが、僕のような凡人はなかなかそうした「心の声」に身を委ねる勇気もありませんので、立ち止まってこのことをもう少し考えたいと思っています。

ロジックの「逆回転」?

というのも、ここ一年、哲学の流れを以前よりも深く理解できたことで臨場感が増してきたことがあります。

それは「どうやら哲学の世界における「思考」や「ロジック」の使われ方は「近代」と「近代の後」では方向性がまったく逆だぞ」ということ。

かなり乱暴な整理かも知れませんが、近代のロジックの使われ方は「構築」の方向。何か学説を組み立て、何かを創り出し、正しさを証明していく、という思考の方向性です。

現代社会では「ロジカルな人」というと基本的にこの路線ですよね。

一方で、「近代の後」のロジックの使われ方は「脱構築」、あるいは「逃げる」、組み立てるのではなく解体し、骨格を溶かしていく方向。

合理的で整合的なものを疑う「近代の後」の時代の思考は、対象を疑い、構築されたものを解体し、隠されたものを暴いていく方向に向かいます。

「そんなの意味ねーじゃん」とか
「ホントはこんな姿なんだぜー」とか

どんどん暴いてこれまでの「常識」を破壊していく。

「近代」の思考が「建設業」だとしたら、「近代の後」の思考は「解体屋」さん。いわゆる「静脈産業」みたいなものです。「近代」と「近代の後」はロジックの向かう方向性が全く逆方向なんですよね。

で、大事なことはここから先。

「知の最上流」である哲学の世界ではそうしたパラダイムシフトが起こっているのですが、一方でその下流にある各学問分野はどうでしょうか?というお話です。

学問は実社会に近くなるほど「違い」を明確にし、正しさを主張し、何かを「構築」しなければなりません。論文もいっぱい書かないといけないですしね。

もちろん「学問」も社会の中に位置づけられることですので、これは必要なことなのですが、パラダイムとしては「近代」のロジック。

学校教育の現場でも

そして、こうした学問分野の下流にある「教育」のパラダイムも、同様にまだまだ「近代」のものです。

余談ですが、今度、9月と10月に不登校児童を対象とするフリースクールの経営者である岸本さんという方とセミナーをするのですが、児童教育の現場では不登校生徒数はうなぎ登りだそうです。

現場では「校門をくぐったら登校でカウント」みたいなセコい対処療法が繰り返されているようですが、その増加はもはや統計的にも隠しきれません。

いろいろ個別に背景はあると思いますが「近代の後」の時代に育った子供たちに「近代」の教育がもはや機能しなくなっているという兆しとも解釈できます。企業も同じような感じなんじゃないですかね。

「勝ち組」の姿

で、まぁ、マクロで見るとそういうことは社会の片隅に追いやられ、結果として「近代」のロジックの世界で順位を上げてきた人間が受験戦争を勝ち抜き、社会に影響力を持っているのが現状。         
              
そして時代は「令和」。

今日的な問題とはなんでしょうか。

続きは(その3)で。

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