二つの世界の橋渡し
先日、とある経営者から興味深い質問を二つ受けました。
一つは
東洋思想も勉強してみたいけれど、西洋哲学をベースにしている私には混乱しないでしょうか
というもの。
もう一つは、別の方からの
昔からなんとなく東洋的な感覚で生きてきたのですが、西洋哲学を学んで論理的になると、これまでの直感が鈍らないでしょうか
というものでした。
どちらも、異なる知恵の世界への一歩を踏み出すことへのちょっとした不安がにじみ出ている、すごく気持ちがわかる問ですね。
それでは、今日はこのあたりの問を解説してみましょう。
ちょっと複雑な事情がある
実は、この二つの質問の背景には、現代人が抱えるちょっと複雑な事情が隠されている。
私なりの理解では、西洋哲学って「人間の知恵」の最高峰なのです。
特に、今ある常識を疑って新たな視点を見出す論理的思考(弁証法)を通じて到達する視界の深さと精密さは、本当にすごい。
一方、東洋思想は自然の摂理に学ぶ叡智である意味でもっと根源的な真理を射貫いている。
世界の真理を人間が自力で見出そうとするか、あるいは、宇宙や自然から教わるかの違い。

ただし、ここにやっかいな問題がある。
「言葉にならない世界」のやっかいさ
東洋の叡智は「言葉にならない世界」を扱っている。これが困ったちゃんなのだ。
言葉にならないからこそ深い真理があるんだけど、同時に、その「言葉にならなさ」のせいで、とんでもない誤解を生みやすい。
気がつくと「なんとなくいい感じ」の自己啓発話になってしまったり、「宇宙のエネルギーが」みたいなスピリチュアル商法になったりする。
本来の深さとは程遠い、薄っぺらいビジネスの道具にされてしまう。
これって、東洋思想にとってかわいそうだし、学ぼうとする人にとっても災難だと思う。
西洋哲学のすごいところ
西洋哲学って、知的な道具としてめちゃくちゃ強力だ。格調高くチート技が繰り出せる、秘密の道具ともいえる。
何がすごいかといえば、表向きには、その「きちんとしてる感」と「ちゃんと伝わる感」だ。
論理的に積み上げた思考は、他の人にも正確に伝えることができるし、再現性がある。
ビジネスの現場で「なぜそう判断したの?」って聞かれたときに、ちゃんと説明できる。
たとえば「AがあってBがあって、だからCになる」みたいな筋道立った考え方。こうした思考は複雑な現実を整理して、矛盾を乗り越えて、新しい答えを見つける力の根幹となります。
こうした力は現代のビジネスパーソン、特に何らかのグループや組織のリーダーにとって必須の能力。
世の中って「絡まった毛糸」のようになっていて、いろんな人の利害関係がいろいろな感情とともにもつれ合っている。
ますます状況が複雑になる中で、筋道立てて物事を進めていくには、この種の知的体力が絶対に必要になる。
でも、これだけじゃやっぱり限界がある。
東洋の叡智が教えてくれること
東洋思想が扱っているのは、もっと根っこの話だ。
自然の摂理、生命の流れ、存在の根本的なありよう。こういうものに対する洞察の深さは、正直言って西洋哲学を上回っている。
「水は低いところに流れる」「柳は風に逆らわない」っていうシンプルな表現の中に、宇宙の法則そのものが込められている。
問題は、この真理が「言葉で説明できない」ってところなんだ。
「本当に大切なことは言葉で説明できない」って感じで、まさに、体験するしかない、感じ取るしかない領域。
この「言葉で説明できなさ」が、東洋思想の深さの証拠でもあるんだけど、同時に大きな弱点でもある。
というのも、言葉にならないものは、誤解されやすい。都合よく解釈されやすい。そして、商売のネタにされやすい。
結果として、書店のビジネス書コーナーには「古代中国の知恵で成功する方法」とか「禅的リーダーシップ」みたいな本が並ぶ。
中身を見ると、東洋思想のエッセンスらしきものを都合よく切り取って、現代的な成功法則に仕立て上げている。
これって、東洋思想に対してちょっとひどいんじゃないかと思う。
まぜるな危険、東と西
二つの知恵体系に同時に触れる際、最も重要なのは「同じ水準で比較しない」ということだ。
たとえば、西洋哲学の世界は自我の確立を前提としている。
「考える私」としての、しっかりとした自我を基盤として、そこから論理を展開していく。
一方、東洋思想の多くは自我を超えたものに触れようとしている。
固定化された自我そのものを疑問視し、より大きな流れとの調和を求める。
この違いを理解せずに両方を学ぼうとすると、まるで水と油を一つのコップに入れようとするような混乱が生じる。
東洋思想をベースとする方に取り入れていただきたいのは、西洋哲学の論理的分析は「直感を殺すもの」ではなく、「直感をより豊かにするもの」だという理解だ。
優れた論理的思考力は、実は直感的判断の質を高めてくれる。
なぜなら、構造を見抜く目が養われることで、より微細な感覚にも気づけるようになるからだ。
重要なのは、どちらが正しいかではなく、人と世界の異なる領域の話を扱っているという理解だ。
東西の思想に触れる心構え4選
第一の心構え:「統合」ではなく「複眼」
私の経験上、東洋と西洋の知恵は「使い分ける」ものであって、「統合する」ものではありません。
どちらの視界でも物事を捉えられる「複眼」を持つことが大切です。
東洋思想ベースの方の場合には、自分の直感が本当に正しいのかという審査の観点、あるいは、自分の直感を他者に説明するための理論武装の手段として西洋哲学を使うのがよろしいでしょう。
逆に、西洋思想ベースの方は、合理では到達できない領域を理解した上で、最終判断には東洋的な「感覚」を重視することでおもしろい世界が垣間見えます。
データでは見えない部分、その人の「気」や「エネルギー」といったものを感じ取るアプローチは、その人の世界を大きく広げます。
これは、大工さんがハンマーとノコギリを使い分けるようなものだ。どちらも大切な道具だが、用途が違う。
釘を打つのにノコギリは使わないし、木を切るのにハンマーは使わない。
東洋と西洋の知恵も同じように、「その場その場で適切な道具を選ぶ」という感覚で臨むのが良いでしょう。
第二の心構え:「体験を通じて学ぶ」
東洋思想を理解しようとするとき、西洋的な学習法だけでは限界があります。
西洋哲学は明晰さを重んじますので、論理を追い、概念を整理する。しかし、東洋思想の多くは言葉にならない世界を扱いますので「体験を通じて会得する」ことを前提としている。
まさに、ブルースリーが「考えるな、感じろ!」といっているとおり。
他にも、禅の「只管打坐(しかんたざ)」とか、茶道の「和敬清寂」とか、道といわれるものは、ほとんどがそんなノリです。
これらは概念として理解するのではなく、実践を通じて感覚を深めていくものなのでしょうね。
もちろん、忙しいビジネスパーソンが急に座禅を始める必要はないと思います。
実際「やってみたけどよくわからん」という声も聞かれるところですし笑。
大事なことは、日常における体験の感覚の違いをしっかり感じ取ること。
たとえば、「無為自然」という老子の概念を学ぶとき、その字面の意味を覚えるだけでなく、実際に自分の行動パターンと内面の観察をを大事にしてみる。
「力まかせに問題を解決しようとしていないか」
「自然な流れに逆らっていないか」
「そうしたくなる自分の心のあり方は…」
なんて自問自答してみる。
そうすることで、概念は「生きた知恵」として身についていきます。
第三の心構え:「おまもり」あるいは護身術
一方、考えることを軽視していてはいけません。
「考えるな、感じろ」といったブルース・リーはワシントン大学哲学科の出身だそうです。
しっかりと考えた先に、本当に感じられる領域があるというのが本当に大事なこと。
別の観点では「感じる」の世界は自分の中だけの体験ですので、共有できません。共通言語がない世界です。
なので、先にあげたように都合良く切り取られて、薄っぺらいビジネスの道具や洗脳のツールにされてしまいかねません。
「感じる」だけを重視していると、そうした「思惑」に簡単に支配されてしまいます。
人間の知恵の最高峰である西洋哲学はそうした様々な思惑から自分を守る護身術あるいはおまもりとして強力に自分を護ってくれます。
ご先祖様に祈ることも大事ですが、自分で自分の身を守る強さも身につけたいですね。
第四の心構え:「矛盾を楽しむ」
東洋と西洋の知恵に同時に触れていると、一見すると矛盾するような教えに出会うことがあります。
- 西洋思想は「自立した個人」を理想とする一方で、東洋思想は「個の解消」を説く。
- 西洋的には「明確な目標設定」が重要だが、東洋的には「無目的の境地」が理想とされる。
など。
こうした矛盾に出会ったとき、どちらかを否定する必要はありませんし混乱する必要もありません。
むしろ、「矛盾そのものの中に深い真理がある」と考えてみるのも一つの手段です。
こうしたまなざしを通じて、たとえば、光が「波」でもあり「粒子」でもあるという量子力学の世界観のように、表面的には矛盾するが、より深い次元では調和しているという姿が見えてきます。
人間の成長もまた、このような矛盾的プロセスを含んでいます。
強い個を確立すること、そしてその個を超越すること。明確な目標を持つこと、そしてその目標への執着を手放すこと。
矛盾を恐れるのではなく、むしろ「矛盾の中にこそ成長の鍵がある」と楽しむ心構えが大切なのではないでしょうか。
実際にどう学んでいくか
さて、ちょっと説教くさくなりましたが、じゃあ実際にどう学ぶかって話をしたみたいと思います。
結論からいうと、まず自分の「ホーム」をしっかりさせることから始めるのがいい。
西洋思想が得意な人なら、まずは論理的な考え方をとことん身につける。難しい本じゃなくても、ビジネス書でも何でもいいから、「なぜそうなるのか」を筋道立てて考える練習をする。
そして、その限界を知る。
東洋思想に親しんでいる人なら、まずは自分の体験を大切にする。瞑想でも、自然との触れ合いでも、何か一つの「感じる」ことを深く極める。体験的な知恵の土台を固める。
そしてその限界を知る。
そこまで来たら、相手の世界に「お邪魔する」感覚で触れてみる。
西洋ベースの人は東洋系の本を読んでみる。ただし、理解しようとしない。味わおうとする。
東洋ベースの人は論理的思考の本を読んでみる。ただし、体験を否定しない。論理は道具として使う。
大切なのは「お邪魔する」であって「引っ越す」じゃないってこと。時々相手の世界を訪れて、新鮮な刺激を受ける。
そして自分のホームに戻ってくる。
その繰り返しが、両方の世界を豊かにし、いつしか、両方をまたぐ「複眼」を手に入れることにつながっていきます。
おわりに
東洋と西洋の知恵に触れることって、決して「バランスの取れた人間」になるためじゃない。
どちらも、それぞれ限界がある。
西洋哲学はどうしても人間目線になっちゃうし、東洋思想は現代社会での使い勝手がいまいち。でも、だからこそ価値がある。
一つの見方だけじゃ見えないものが、二つの見方を行き来することで見えてくる。固まった思考パターンから抜け出すことができる。
そして何より、他の視界を体験することを通じて、自分の得意分野をもっと深く理解することができる。
大切なのは、「どっちも中途半端になる」リスクを避けること。
そのためには、まず一つの軸をしっかりと立てる。その上で、もう一つの世界を「旅する」感覚で触れてみる。
旅から帰ってきたとき、自分のホームがもっと豊かに見えるはずだから。